将来は主軸を担う打者と期待されたが、十分な実績を上げることができなかった。
【キャリア】
愛知県出身。中京商業時代は甲子園に出場。中京大から63年阪急入団。外野手として活躍。70年広島移籍。72年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上0シーズン
【論評】
ドラフト制以後でいえば1位の評価で入団した選手。長打力を期待され、1年目から5番を打った。65、66年はスペンサーの前の3番を打ったが、守備があまり良くなく左投手にも弱かったので、規定打席には達しなかった。長池の台頭とともに控え、代打に転じた。広島移籍後も主に代打として出場した。
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朝日新聞7月20日付朝刊で、桑田真澄が「野球を好きになる七つの道」と題するオピニオンをほぼ全10段のスペースで語っていた。感心した。見出しだけを上げる。
一、練習時間を減らそう
二、ダッシュは全力10本
三、どんどんミスしよう
四、勝利ばかり追わない
五、勉強や遊びを大切に
六、米国を手本にしない
七、その大声、無駄では?
成長盛りの少年の体力を無視した長時間の練習、指導者による過酷な練習の強制、ミスに対する残酷な制裁、汚い手を使ってでも勝とうとするインモラル、野球バカの醸成など、桑田は、高校野球に象徴される日本の野球への取り組み方に、鋭い批判のまなざしを向けている。「甲子園の申し子」とも言える桑田の話だから説得力がある。また「高校野球の権化」ともいうべき朝日新聞の記事であることも意義がある。桑田が僚友清原とは異質の人間であることがよくわかる。
高校野球の指導者たちが、この記事を読んでどう思ったか、興味深いところだ。
昨夜、「雨トーク」というバラエティ番組で、運動部のトップアスリートだった芸人たちが、当時のエピソードを話していた。修学旅行中もトレーニングをさせられたり、練習中は一切水分補給を許されなかったり、寮生活でプライベートが全くなかったり。明らかな人権侵害、違法行為が教育の名の下、今も行われている。暗然とする“笑い話”だった。「いじめ」の排除が神経質に叫ばれるが、どうして体育会系の仕打ちは見逃されているのかよくわからない。
現在の体育は、戦時中陸軍が主導した軍事教練の流れをくんでいる。陸軍は、徹底した縦社会を作り上げ、兵たちに自己に対する執着を一切捨てさせ、上官の命令で喜んで死地に赴く人間を量産した。絶対服従のヒエラルキーには小人たちが巣食って、リンチや虐待などの犯罪が行われた。65年たった今も、その匂いはそのまま日本全国の体育会系の部室にわだかまっている。
そうした軍隊型の製造システムで作られた人間は、“量的”目標に対しては異様な力を発揮することが多い。高度成長期の日本は、こうした人材が作ったと言えるだろう。しかし、社会が成熟し、個々が独自の判断を求められる“質的”時代に入って、日本の成長が止まったのは、自分で考えて判断し、意見が言える人材がいなかったからだ。オリンピックでの不振もこの流れで説明されることが多い。
桑田真澄は、こうした軍隊型システムの頂点とも言うべき組織で育ちながら、それを超克した。高校時代から練習法に疑問を投げかけ、行き過ぎたヒエラルキーを改めようとした。大した人物だと思う。
(以下 「下」に続く)
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9月号を最後に、読売新聞社発行『大相撲』が休刊となる。1954年創刊、横綱でいえば吉葉山、栃錦の時代だ。まだ年4場所時代。以後、栃若、柏鵬、北玉、貴輪、北ノ湖、千代の富士、若貴、外国人力士と相撲界と星霜をともにしてきた。ずっと月刊だったが、昨年から隔月刊になったばかりだった。
大相撲の専門誌としては、『大相撲』より5年早く、日本相撲協会機関紙でもある月刊『相撲』がベースボールマガジン社から発行されていた。しかし、雑誌の作りとしては圧倒的に『大相撲』の方が上質だった。昭和50年代まで、『相撲』はすさまじい数の誤植があった。ある号など、星取表が前年のものだったことがある。併読していたが、編集の仕方で同じ本場所の記事がここまで違うものか、と思った。
『大相撲』の論説を引っ張ったのは、小坂秀二という元アナウンサー。双葉山の全盛時代を目の当たりにし「相撲の神髄はこの人にあり」という信念を抱き、力士は、横綱はかくあるべしという論陣を張り続けていた。また、長く編集長を務めた三宅充は相撲史に強く、横綱の起源を「結神緒」であるとし古代から続く神聖な存在であるとした。同誌では横綱の数え方は「何代目」ではなく「何人目」が正しいと言い、それを貫いていた。また、江戸から明治、戦前までの名力士、名勝負の紹介も面白かった。
古今の名力士や錦絵などを紹介した分厚い増刊号も発行。これは今でも宝物だ。
北出清五郎や、杉山邦博、向坂松彦、保田武宏、それに玉の海梅吉、神風正一、天龍三郎などによる座談会も充実していた。
表4は常に三和銀行。財界のバックアップも感じさせた。
読売新聞と言う体質もあってか『大相撲』は、どちらかといえば保守的で伝統重視型。大相撲界を叱る論調が多かった。対照的に、『相撲』は機関紙だけに批判的な記事はなく、あくまでスポーツとしての相撲に焦点を当て、ファンの醸成に努めていたように思う。
『大相撲』は、少々頭は硬かったが、常に今の土俵を、歴史、伝統の中に位置づけ、その精神性や使命を訴え続けていた。まっすぐ背骨が通った雑誌だった。
外国人力士の増大や部屋の乱立などが進み、相撲界のモラルが低下し、未曽有の危機を迎えている中で、今こそ『大相撲』のオピニオンが期待されるところだった。経済的な事情による休刊だろうが、読売新聞社が世間の論調に迎合した結果であるのなら残念なことだ。
最終号の「声」に耳を傾けたい。
書店に並ぶ『相撲』も一時期からすれば半分の厚みしかない。相撲界だけでなく、相撲ジャーナリズムも衰退の一途を辿っている。
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久しくも見ざりし相撲(すまい)人々と手を叩きつつ見るが楽しさ
昭和天皇の御製である。昭和30年5月場所10日目、大相撲は天覧の栄に浴したが、この折の感興を詠まれたものだ。明治天皇の正嫡に生まれ、乃木希典の薫陶を受け、明治、大正、昭和という戦争と混乱の長く厳しい時代を歩んでこられた帝が、55歳になられたこの年、庶民とともに土俵に一喜一憂して手を叩いておられる。この御歌は平和の回復を喜ばれる気持が素直に表れ、技巧を超えた美しさがある。そして同時に「相撲」が、日本にとってどのようなものなのかを、象徴的にあらわしていると思う。
相撲は、宮中の年中行事として誕生し、中世末期に武芸として流行した。この時期に相撲を職業とする人々も現れた。江戸時代に入ると「勧進相撲」として庶民の人気を集めるようになった。江戸時代中期には興行の中心が上方から江戸に移り、現在に近い相撲界の仕組みができる。番付は、宝暦7(1757)年10月ものから現在まで、連綿と続いている。この場所の東大関雪見山から、今年名古屋場所の東横綱白鵬まで、一つの盛衰史としてつながっているのだ。
相撲は、天皇を頂点とする貴族社会に生まれ、武士によって広められ、近世に庶民のものとなった。元は祭祀の一つだったが、次第に庶民の娯楽として大衆化していった。これは、日本の伝統文化の生成の典型だ。大相撲が他のスポーツと大きく異なるのは、伝統文化であるということだ。他の伝統文化同様、変容しながらも古式を維持、継承してきた。他の格闘技がレギュレーションを大きく変えながら時代のニーズに即応してきたのとは、大きく異なるのだ。
大相撲は、断髪令が出てから140年がたとうとする今も、髷を豊かに結った700人もの力士を抱えている。髷を結う床山も専門で抱えている。土俵の築き方も、化粧廻しや廻し、力士の装束も、すべて相撲界ならではのものである。番付用に独自に相撲字を持ち、寄せ太鼓なども独自のものだ。さらに相撲は、相撲甚句、初っ切りなどの付随する芸能も伴っている。ちゃんこのような食文化さえ周縁にある(明治以降に考案された料理ではあるが)。一つの世界が、こんな大きな規模で存続しているのは、まさに稀有のことである。そして、その伝統文化継承の最も重要な行事が、本場所なのだ。
相撲協会の武蔵川理事長が、名古屋場所返上の可能性を口にしたのは、伝統文化としての相撲の役割を全く理解していないとしか思えない。大相撲の興行は、日本人の共有財産としての伝統文化の維持、継続という責務を帯びて、相撲協会に仮託されているのである。協会の経済行為としてのみあるのではない。もちろん共催する中日新聞のものでもない。相撲協会の判断でやめたり続けたりできるものではない。昔の相撲界はそのことを十分に認識していたから、空襲で東京が焼け野原になった昭和20年6月の本場所も非公開で行ったのだ。伝統を絶やしてはならない、番付を途切れさせてはならないという責務を十分に認識していたのだ。
さらに言えば、NHKが相撲中継を中止したことも、愚挙というべきだ。1928年以来、NHKはラジオ、テレビで相撲放送を続けてきた。今、全国にいる相撲ファンの多くは、本場所を見たことはない。いわゆる「お茶の間桟敷」のファンだ。相撲が、一握りの好事家や特権階級から、大衆のものになったのはNHKの放送と、新聞の報道があったからだ。大相撲が伝統文化として日本国民のコンセンサスを得る上で、マスコミが果たした役割は大きい。現代社会では、メディアも伝統文化の継承に加担しているのだ。それを考えるなら、軽々に中止をすべきではない。大相撲中継をすれば、世間の指弾を受けるかもしれないという予断は、近視眼的だ。自己保身に走っているとのそしりをまぬかれない。
大変恐れ多い例を引き合いに出すが、太平洋戦争が終結し、日本の戦争責任が問われる中で、大元帥である昭和天皇の進退と天皇制の廃止が取りざたされた。帝自身も一時は退位を考えられたが、最終的には新生日本の象徴的存在としてあり続けることを選択された。その背景にはGHQの意向があったのだが、同時に自分の代で千数百年も続いてきた皇室の祭祀を途絶えさせるわけにはいかない、との判断があられたのだと思う。むしろラストエンペラーのように退位されて市井の人となられた方が、気楽だったかもしれないが、昭和天皇は、あえて多難な道を選ばれた。それは、伝統を受け継ぐ当事者としての責任感、使命感によるのだと思う。次元は違うが、大相撲も、自らが継承したもののかけがえのなさ、そして次代へ引き継ぐ責任の重さを痛感すべきだ。
本日から始まる大相撲名古屋場所。日本相撲協会は15日間を粛々と興行し、必要経費等の支払いをすべて終わったのちに、収益をすべて公的寄付に回すべきである。自分たちの懐に一銭もいれるべきではない。その上で、千秋楽後に武蔵川理事長が、全親方の辞表をとりまとめて、監督官庁である文部科学省に提出し、その日をもって相撲部屋の廃止を宣言すべきだ。大政奉還である。
これに対し、文部科学省はあと3場所の暫定的な本場所運営を相撲協会に命じるとともに、再建委員会を立ち上げ、ここで相撲部屋解体後の運営体制、力士の監督などの諸制度をまとめあげ、新しい相撲界のトップを決めて新生日本相撲協会を立ち上げるべきだ。この際に官僚は一切立ち入らないという前提が必要だ。
大相撲の伝統は、「新しき革袋に古き酒を入れる」形で継承されるべきだと思う。
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社会が変化し、世の中が反社会的行為や暴力集団との交際を“表面上は”全否定するようになったことに気がつかない鈍感な相撲界は、厳しい指弾を受けた。ある意味で、相撲界は「被害者」といっても良いと思うが、相撲界自身にも深刻な劣化があったことは否めない。
時津風部屋の力士リンチ事件、朝青龍の事件、外国人力士の覚せい剤事件、そして野球賭博時間。一連の大相撲界の不祥事、スキャンダルを通じて、相撲界が行ったのは、現役力士と一部の親方のクビを切っただけである。不世出の大横綱、しかも全盛期の横綱朝青龍を、いともあっさりと角界から追放したことで、相撲界の威信は地に落ちたと言ってよい。相撲協会は、自らの宝である「力士」を守らなかったのだ。土俵で命がけで戦ってきた力士を見殺しにしたのだ。
そこまでして守ろうとしたのは大相撲の伝統ではない。また、名古屋場所の返上を簡単に口にしたことからもわかるように、本場所の土俵でもない。守ろうとしたのは、ありていにいえば、理事長選挙の有権者である108人の親方とその家族の「生活」だ。
部屋建築のローンの残る親方、ばくちの果てに借金まみれになっている親方、そして後援者と怪しげなビジネスに手を出している親方、相撲界の周縁にあって今の立場が失われれば路頭に迷ってしまう「生活者」を守るために、相撲界の「至宝」を次々と切り捨ててきたのだ。これを劣化といわず、何といおうか。
前述したとおり、相撲界は都市の無宿者を集めて興行を行ってきた。大坂相撲の有力な親方の中には、本物の博徒が混じっていた。親方と弟子という制度は、博徒の親分、子分の関係と相似だ。無頼の徒を受けいれた親分や親方は、その社会で生きることができるように教育を施した。その見返りとして弟子は、親方に忠誠を誓った。その固い仁義が相撲界の根幹をなしてきた。明治維新後、高名な水戸の剣客内藤高治を叔父に持つ大横綱常陸山は、武士道を基本とする「相撲道」を拓いた。ここでも師匠への「忠義」は基本とされ、師匠は弟子を「士」として育成するのが本分であるとされた。親方は弟子を教育し、安心して土俵に上がることができるように守ってやるのが責務だったのだ。
相撲界が「武士道」を標榜するようになると、政界や経済界のお歴々も安心して「谷町」につくようになった。以前は「男芸者」と言われ、用心棒代わりに連れて歩くのが贔屓だったが、上流階級の後援者は、力士を一人前の人間として扱い、啓蒙、訓導を行った。相撲界の地位向上は、こうした力士への人格陶冶もあって進んだのだ。
もちろん、相撲界と博徒などのつながりは切れたわけではない。大坂では相撲界のもめ事にはやくざが割って入るのが通常だった。昭和に入っても横綱玉錦は博徒と親しく付き合った。しかし、そこには一定の節度があった。やくざも相撲界に迷惑を及ぼすようなまねはしなかった。
近代化の波によって、大相撲は何度も存亡の危機に立たされた。最大のものは、昭和初年の「春秋園事件」だろう。出羽一門が番付の半分を占めるという一部屋独裁体制にあって、番付の処遇にも不満のあった出羽一門の関脇天竜三郎が、待遇改善や組織の近代化などを訴えて力士を糾合し、髷を切って新組織(関西角力協会)を作った事件である。右翼が介入するなど大事となり世間を騒がせたが、力士たちの多くは師匠たちの切り崩し策によって懐柔された。結局、天竜など首謀者一派が新協会を設立するも、最後は満州の地で立ち消えになった。
この事件は体制側の全面勝利に帰したが、一時は幕内力士の大部分が離反し、相撲興行の存続が危ぶまれた。協会は幕下力士を繰り上げ入幕させて体裁を繕ったが、この繰り上げ入幕の中に大横綱になる双葉山がいた。双葉山はまさに救世主となってどん底にあった相撲界の人気を急上昇させた。大横綱玉錦との勝負は、毎場所注目の的となったし、玉錦が現役中に没すると、今度は連勝記録が世上の話題を呼んだ。「神は相撲界を見捨てなかった」と言いたいような幸甚だった。
双葉山(時津風親方)は引退後、協会の幹部となり、高度経済成長期の相撲界をリードした。社会が大きく変わる中で、相撲協会も様々な問題に直面したが、出羽の海(元横綱常の花)や時津風率いる協会は、近代化すべきところは近代化し、残すべき美風は断固として残した。相撲教習所の開設、一門別総当たりから部屋別総当たりへの転換、相撲茶屋の近代化、さらに時津風の後を受けた武蔵川理事長は、義務教育期間の学童の相撲部屋入門の禁止、無気力相撲の摘発などを行った。その集大成が、春日野理事長による新国技館の建設だったと思う。
相撲界は、目に一丁字もない大男の集団のように見えるが、相撲取上がりには、会計に明るい人も、教育の達人も、マスコミ操縦に長けた人もいた。そのような人材が輩出して、相撲取は自分たちで自らの社会を運営する伝統ができてきたのだ。自浄能力もあり、組織としての統率力もあった。もちろん、様々な問題を胚胎していたにせよ、相撲界は独自の経営手腕も見識も有していた。
こうした相撲界の統治力にほころびが見えたのは恐らくはバブル以降のことだろう。相撲部屋の乱立、一門の統制力の低下、外国人力士の急増という一連の現象が並行的に進行し、相撲界は質的に劣化していった。そしてこの時期理事長に就任したのが北の湖だ。名門出羽一門ではあるが、北の湖は傍流の三保関部屋出身であり、小部屋の悲哀も知っている。現役時代は豪快な取り口ではあったが、すべての取り組みを記憶していると言われるほどち密な頭脳の持ち主であり、その手腕に大いに期待した。
しかし、北の湖は、理事長としてやるべきこと、判断すべきことを何一つやらなかった。時津風のリンチ事件、外国人力士の大麻事件、北の湖は糊塗策に奔走し、指導力を全く発揮できなかった。事態を鎮静化させるには、隠ぺいではなく、正直に世間に明るみに出し「さすがは大横綱だ」と思わせるような見事な「謝りっぷり」を見せるべきだったのだが、北の湖は「相撲取とはこんなにも小心で狡猾なのか」と思わせただけで理事長の職を辞めざるを得なくなった。そして後継の現理事長武蔵川は北の湖より5歳も年長だが、長老としての重みも無く、深刻そうにため息をつくだけである。挙句に今月、最悪の事態を迎えたのだ。
不祥事がかくも続々と続く背景には、経営者、管理者の劣化、腐敗があるのは明らかなのに、この期に及んで、相撲協会は、またもや力士や一部の親方のクビを差し出し、延命、保身を図ろうとしている。
不祥事を受けた理事会で、貴乃花親方は現役力士琴光喜の救済を訴え、それが通らないと辞表を提出した。これは全く正しい。感動さえ覚えた。琴光喜の行為は確かに違法ではあるが、こうした土壌を作ったのは親方であり、より本質的な責任が協会幹部にあることをはっきり認識している。一部には自派の大嶽親方、阿武松親方が除名、謹慎処分を受けたことへの不満表明だと言われているが、その次元ではないと思う。
明治に常陸山があったように、春秋園事件後に双葉山があったように、この未曽有の事態を担う人材として貴乃花に期待したい。彼は依然、四面楚歌のようだが、孤立を恐れない彼以外にこの難局を救う人材はないと思う。
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幕末近く、肥後国宇土で百姓をしていた近久信次は、体は大きく力自慢。20歳を過ぎ、すでに妻子もあり、平凡な人生を送っていた。近久家は豪農であり、代々村役人も務めていたが、ある年、宮相撲で村人を殺めてしまい村にいられなくなって、妻子を捨てて出奔した。大坂に出て湊部屋に入門、23歳と遅いスタートだったが力量抜群でたちまち幕内に出世、後に江戸相撲に転じて、横綱を張り、故郷名物に因んで不知火諾右衛門と名乗った。
近久信次が大男の力自慢でなかったら、恐らくは大坂で博徒(ばくち打ち)になっていただろう。農村に住むことを許されない無宿人は、都市の片隅で正業ではない稼業につくしかなかった。ばくち打ち=やくざがその代表であり、芸人(のちの遊芸稼ぎ人)や相撲取も、身過ぎの道こそ違え、同じアウトローの仲間だった。
「堅気の稼業ではない」という点で、相撲取りもやくざも、芸人も同じだった。遊女などの春をひさぐ稼業も同様である。また、水商売も売春との境界線があいまいであり、アウトローの周縁部にあるとみなされた(だから水商売上りの女性が普通の家=良家に嫁すことは、インモラルだとされてきた)。
さらに言えば、維新後生まれたマスコミやジャーナリズムも、アウトローとの境界線があいまいな稼業だった。新聞の世界は「インテリが書いて、やくざが配り、馬鹿が読む」と揶揄されたが、配達業務のみならず、印刷や拡販などの分野で、各社がアウトローの力を借りていたのは公然の秘密である。
ほんの数十年前まで、やくざが相撲などスポーツの世界や、芸能界、水商売、マスコミと不即不離の関係にあるのは当たり前のことだった。興行がうまくいくためにやくざを手なずけるのは、プロモーター、プロデューサーの重要な仕事だった。美空ひばり、小林旭から中田ダイマル、ラケットまで、人気者のビジネスにやくざがかかわるのは当たり前のことだった。マスコミも裏社会の情報を握るのは必須だった。また、売春やそれまがいの行為を行う風俗は、スポーツ新聞(親会社は大新聞社だ)の重要な広告源だ。
要するに、裏社会とスポーツ、芸能、マスコミなどの世界は「一味」だったのだ。
警察権力は反社会勢力との対立姿勢を強めていると言われるが、それによって裏社会が壊滅的な打撃を受けたという話はない。昔の素朴な博徒は今や組織犯罪者として、大きな経済力を持つに至っている。かつてあったアウトローなりの倫理観や掟はなくなり、ますます非道になっている。しかし、その勢力を利用したいと考える権力者がいるために、組織犯罪者はますます力を得ている。そして裏社会が芸能界、スポーツ界などと密接につながっているのは変わりはない。
ではなぜ、相撲界は、今、激しいバッシングにあっているのか。それは、今世紀に入って世の中の「遊び」がなくなったことが背景にある。
飲酒運転が厳格に取り締まられたのは、福岡県の公務員の事件が端緒だったと記憶する。以後、微薫を帯びてハンドルを握る者は「極悪人」と呼ばれるようになった。また、トトカルチョは高校野球を楽しむ必須のアイテムだったが、これも賭博行為となった。賭けマージャンも賭けゴルフも犯罪行為となった。これまで違法とされながらも、お目こぼしをされていたことが、次々と厳格に取り締まられるようになったのだ。路上喫煙が、反社会的行為になったのもついこの間のことだ。暴力団など反社会勢力への利益供与も厳しく戒められた。株主総会から総会屋が締め出されたのもこうしたことからだ。学校でのいじめの根絶(できるか!そんなこと)も声高に叫ばれるようになった。日本社会は「遊び」を失い、鋭角的にものごとを判断する社会になったのだ。
ただし、それは、社会が良くなっていったということを意味してはいない。そんな単純な話ではない。外面だけが良くなっただけで、社会の本質は改善されていない。表向き、表面上は「良くなった」という体裁を繕う社会になったにすぎない。社会悪、必要悪とみなされてきたものは、より巧妙に一般社会に巣くうようになっていった。
人々は、こうした世の中の変化に必死で適応している。社会の潮目を読むことに長けたマスコミだけでなく、一般市民も違法行為に神経質になっていった。
そのなかで、大相撲だけが昔の無宿者の感覚のままだったのだ。相撲取りは今世紀に入っても、本場所の支度部屋で野球賭博に興じ、反社会勢力と白昼堂々と交わり(根っこが同じだから親和性がある)、弟子にリンチを加えていたのだ。
私は数年間、企業の広告担当として大相撲に懸賞金をかける仕事を担当した。分厚い札束を持って場所の事務所に行くと、先乗りの親方が真昼間から雀卓を囲んでいるのが常だった。親方と卓を囲む面々が、すべて堅気だったかどうかは定かではない。どれだけ賭けていたのかも知らないが、キャンディではないと思われた。マスコミの人間もその卓を囲んでいたかもしれない。少なくとも相撲記者がその行為を見咎めたのを見たことはない。
社会の「遊び」がなくなるとともに、マスコミはひそかに自らの行状を改めた。正月は屠蘇で乾杯をしてから分厚い元旦の朝刊を配っていた新聞配達は、その習慣をやめた。甲子園の出場校が決まればトトカルチョ用のツリーを1面に載せていたスポーツ紙もそれをやめた。会社でビールを飲んで社用車を運転する記者は絶滅した。そして素知らぬ顔で、他者の反社会行為を糾弾しはじめたのだ。
大相撲は、好餌だった。これまでも、数年に一人くらいは若い弟子が突然死し、病死として扱われてきたが、これを犯罪にした。賭博は勝負師にとって必須のたしなみともいえたが、これも糾弾した。もちろん外国人力士の出現や、小部屋の乱立によって相撲界も変質し、劣化は進んだが、もともと相撲界に一般社会と大きく異なる価値観、体質があったからこそ、新しい反社会行為も生まれていったのだ。
今まで許された、あるいは見過ごされた行為が、目くじらを立てて糾弾される。そのことに相撲界の人間は大きな戸惑いを感じている。「今までもやってたじゃないか。お前ら何も言わなかったじゃないか」と思っている。本場所の開催が危ぶまれるという事態に至っても、親方衆の大部分に反省の色が見えないのは、そうした意識があるからだ。
「マスコミに嵌められた」と思っている関係者も多いはずだ。しかし、それは違うのだ。大相撲を嵌めたのは、マスコミではなく変質しつつある「社会」そのものなのだ。
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今朝、一昨日のワールドカップ一次予選、スロバキアvsパラグアイ戦を録画で見ていた。サッカーマニアというほどではないので、両国にさして興味があるわけではない。ただ漫然と映像を流し続けながらパソコンに向かっていたのだ。試合はややパラグアイが押し気味に進展した。解説の宮澤ミシェルは、NHK杉澤アナとともに両国のサッカーの質の違いをわかりやすく説明していたが、ふいに感に堪えないように「本当に違うサッカーがぶつかり合うので、ワールドカップって楽しいなあと思いますね」と言った。その素直でストレートな言葉に思わず画面の方を向くと、直後にパラグアイが先制。にわかにこの赤の他人同士の試合への関心がぐっと高まった。
ワールドカップでは自国の動向に目がいきがちなのは仕方がない。しかし、この大イベントは国家同士、つまり民族性や文化、歴史などがぶつかりあう大会なのだ。サッカーと言う同じ「課題曲」をどのように表現するか、その多様性を楽しむものでもあるのだ。宮沢ミシェルは、その本質を子供のような鮮度感のある言葉で表現した。
この人はどんな人なのか良く知らなかったが、フランス人とのハーフで、国士舘大学を出てフジタからジェフ市原で活躍したディフェンダーなのだそうだ。A代表に選出されたことはあるが、キャップは持っていない。父は有名なアコーディオン奏者でフランス語しか話さなかったが、本人はちゃきちゃきの江戸っ子みたいな日本語を話す。
とにかくサッカーが好きで、サッカーの話をしたいし、試合を見るのも大好きなのだ。選手上がりの解説者というのは、常に現役選手に小さな嫉妬めいた感情を抱きがちで、ほめるにしてもけなすにしても斜に構えがちだが、この人は良いプレーは手放しでほめるし、スタジアムの盛り上がりとともに盛り上がっていくのが良く分かる。この試合もサンタクルスというプロスペクトへの思い入れを情感たっぷりに語っていた。美声の持ち主でもあり、アナよりも見事な描写をしたりする。そして常に謙虚なので、邪魔にはならない。こういう解説、野球にはいないな。与田剛がちょっと近いかなと思った。
セルジオ越後の「辛口解説」も人気があるようだが、結局この人は「俺にやらせないからこうなる」と言っているような気がする(違ったらごめん)。陰気な解説は見る側も落ち込む。また負けることが多いのだ。ただのサポーターにしか見えない松木安太郎や(だから日本戦以外では解説できない)、未だに日本代表を見下ろしているような中田英も気に入らない。NHKの山本昌邦は的確で分かりやすいのだが、負けそうになるとチーム関係者の感覚に近くなって声が悲惨になってくるのでちょっと怖い。聞いているだけで脂汗が出そうだ。
山本浩という名人アナが法政大学教授になってマイクの前からいなくなった今、宮澤ミシェルの解説が一番のお気に入りだ。
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サッカーと聞いて最初に思い出すのは、高校の体育の授業だ。敵陣での攻防を遠くに見ながら自陣近くで立っていたら、ボールが転がってきた。ディフェンダーとしては蹴るしかないでしょう、と足を出したら野球部で5番を打つキムラ君の脛にまともにヒットした。痛みに顔をゆがめたキムラ君は「足蹴らんとボール蹴らんかい!」と私の横っ面を張り飛ばした。昼食時、真っ赤な手形をほっぺたにつけて、もそもそ弁当を食べていたら、キムラ君は黙って魚肉ソーセージを放ってよこした。いい奴だと思った。
いっちょまえにサッカーの試合は見てきたつもりだ。釜本、杉山で銅メダルを取ったメキシコ五輪も、奥寺の西ドイツ留学もオンタイムで知っている。ドーハの悲劇、ジョホールバルの喜劇もTVにかじりついて見た。夜中に叫んで嫁さんに“ばばたれ猫”のように叱られたりした。翌日、仕事場で「やっぱり両サイドの攻め上がりがね」とか、「ボランチの差でしょう」などと会話に入っていた。が、正直に言う。
サッカーはわからん。
そもそも、サッカーには詳細なSTATSがない。資料を集めた時期があったのだが、どんな有名選手でも出場試合、時間、アシスト、ゴールくらいしか数字がない。FWならゴール数やアシストを試合数で割れば実力が分かるのかと思ったが、MF的な動きもするFWの場合、ゴール数が少ないから実力が低いとは言えない。DFなど試合に出てるだけである。結局、試合で動きをつぶさに見ないと何もわからない。でも、見てもわからない。マラドーナの攻め上がりや、中田英のキラーパスや、ジダンの足技など、解説を聞きながら見るとわかったような気がするが、相対的な評価ができない。試合後の戦評で各選手にポイントをつけているが、評者によってそのポイントは大きく違ったりする。余計にわからなくなる。
小さな声で言うが、マスコミだってわかってない人がいるのではないかと思う。ついこの間まで、ゴールキーパーに「あのシュート、とれませんでしたか?」と質問して痛く失望させた記者がいたと言うし。いわんや素人においてをや。
かつてのNHK山本浩アナは「腰に手を当てる選手が増えてきました」とか、「ここに○○がいます。スペースを消しています」とか、見どころを教えてくれた。でも、今のアナは派手な言葉はじゃらじゃら使うが、我々と同じレベルではないか、と思わせることも多い。
いつだったか出張で行った宮崎で、日本代表の練習を見たことがあった。ラモスを起点としてボールを回していたが、ボールが意志のあるもののように選手の間を動き、それは見事なものだった。ああいうのを見ていると、サッカーには才能、技術、そして美学が確かに存在すると思う。それを表現する言葉もあると思う。
野球のスコアブックは、見慣れてくると試合の流れを頭の中で再現することが可能になる。まるで音楽家が楽譜(これもスコアだ)を見るだけでメロディーが浮かぶような感じだが、サッカーという「即興曲」には、そういうのはない。その場その場で選手のプレーを感じるしかない。それは難しいが、難しいゆえに素晴らしい表現や、記憶に残る言葉が生まれるのだと思う。
高2の夏も高3の夏も予選ベスト4で敗退したので、結局、キムラ君は甲子園には行けなかったが、大学を出て指導者となった。87、88年には江の川高校で谷繁元信を擁して甲子園出場を果たした。キムラ君はサッカーも大好きで、嬉々としてボールを追いかけていた。特にボディアタックはサッカー部もたじたじとする迫力だった。ポスト争いに敗れて、キムラ君は今、関西で飲食店をやっているという。今日から始まるワールドカップを彼は見るのだろうか。今回のワールドカップ、各局のPRは異様に力が入っている。NHKなどは「サッカーTV」になったのかと思うくらいだ。皮肉な見方をすればそれくらい、盛り上がりに乏しいのだとは思うが、始まれば巷はサッカーの噂でもちきりになるのだろう。私は、やっぱりわからぬままに眠い目をこすって試合を見るだろう。そしてわからぬままに「運動量では勝ってたよな」とか「パス回しが遅い」とか知ったかぶりをするだろう。
それが私のサッカーとの付き合いだ。悪いか!
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草創期の阪急の正二塁手。勝負強い打撃でも知られた。
【キャリア】
京都府出身。平安中学時代に甲子園4度出場。草創期の36年阪急に入団。42年途中に大洋移籍。43年阪急移籍。同年退団(応召か)。97年死去。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上4シーズン
【論評】
堅実な守備で初期の阪急の内野守備を支えた。長打力はなかったが、チャンスに強い勝負強い打撃でも鳴らした。打順は6番が定位置だった、43年退団後はプロ野球とは縁を切った。
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新しいスキンすこし不具合があったため、元に戻しました。ご迷惑をおかけします。