NPBからMLBに挑戦する野手が出てこない限り、かなり高い確率で来季の日本人MLB野手は、イチローただ1人になるはずだ。
2001年、MLBに挑戦した野手はイチローと新庄の二人。イチローは首位打者、盗塁王、新人最多安打記録を更新し、チームは地区優勝、新人王、MVPに輝いた。2003年にはNPB最強打者だった松井秀喜がNYYに移籍。以後も、毎年1~2人ずつ挑戦者が出た。
しかし、イチロー以外の挑戦者は必ずしも順調だったわけではない。規定打席到達を最低限の「成功」と規定するなら、出場選手の半数がそれに達しただけだ。
「MLBはそれほど甘くない」というNPB選手の認識と、「NPBの選手は使えない」というMLB側の認識がクロスしたのは、2008年ではないだろうか?この年を最後にMLBへの挑戦者は途絶える。そしてMLBから足を洗う選手が続出するのだ。
2010年、日本人野手は揃いも揃って最悪の数字となった。現時点でMLBにいるのは3人だけ。しかも、イチローを除く2人はスタメンが危うくなっている。松井の来季契約更新はほぼ絶望的だ。福留は1年残っているが、何らかのアクションがあるのではないか。
日本人選手は、デビューの時点で年齢が高い上に、年俸も高い。不振に陥れば、この二つの「高」が大きなボトルネックとなる。彼らにはリトライのチャンスが与えられないことが多いのだ。
メディアにとってもこれは痛い。投手は数日に1日しか登板しないし、その起用法は読めないことが多い、これに対し野手はレギュラーならほぼ確実に出場する。TV中継がやりやすいのだ。もし、来季の日本人MLB野手がイチローだけになったら、MLB中継は減るのではないだろうか。マスコミの熱意も下がることだろう。
イチローこそは、野茂が拓いたMLB挑戦の道を、野手にも拓いた第2のパイオニアだったが、10年の歳月を経て、再び38歳にして1人になろうとしている。
残り50数試合。イチローはもちろんだが、松井秀喜、福留には最後の踏ん張りを期待したい。松井稼、岩村は再度MLBの試合に出場してほしい。そして、NPBからの勇気ある挑戦にも期待したい。
さらに言えば、日米での人的交流がもっとフレキシブルになってほしい。若い選手のMLB挑戦がしやすくなること。そして、復帰も容易になること。これは、日米双方にとって良いことだと思うのだが。
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93年にはじめて40本塁打の大台に乗せたグリフィJr.は、怪我をした95年を除いて毎年のように本塁打王争いに参加するようになる。アリーグ最強の打者の一人となったのだ。ライバルはマグゥアイア、フィルダー、カンセコ、ゴンザレス、フランク・トーマスらだが、グリフィは安定感もあった。SEAでの後半は、台頭してきたA-RODとコンビを組んでいる。
大打者はほとんどそうだが、彼のスイングもすさまじく速かった。バットだけでなく右半身ごと回転するような大きな振りで、球を外野スタンドへと持っていった(その豪快さの片鱗は今年のサヨナラ二塁打でもみることができた)
2000年シーズン終了時点で、MLBキャリア11年、31歳のグリフィJr.は、すでに
1883安打 438本塁打 1270打点 をマークしていた。このペースがあと10年続けば、3500安打、800本塁打、2300打点という破天荒な記録になったはずだ。しかしながら、グリフィJr.の野球選手としての後半生は怪我、故障との戦いになった。
92年死球でDL入り。 95年外野守備で手首故障。 96年右手骨折。
2001年足の故障。 2003年右肩脱臼。 2004年右足腱断裂。 2006年右ひざ故障。
結局、2001年以降、引退までの10年に積み上げたのは、
898安打 192本塁打 566打点 に過ぎない。彼の野球人生は竜頭蛇尾のそしりをまぬかれない。
しかしグリフィJr.は、同時期のマグァイア、バリー・ボンズ、カンセコ、フランク・トーマスらのライバルよりも常に人気があり、好感度が高かった。それは、例のホームラン狂騒曲に参加していなかったこと、そして言動が大人でつねに品格があったことが原因だろう。家庭的にも円満であり、スキャンダラスな報道はこと彼に関してはほとんどなかった。
SEAに10年ぶりで復帰した時は、すでに完全に全盛期を過ぎており、戦力として疑問視する声も多かったが、グリフィJr.はシアトルのファンに暖かく迎えられ、しばしば試合を決める本塁打を打った。
今年、マスコミに流出した「居眠り」報道は、グリフィJr.のプライドを痛く傷つけたに違いない。それが引退を後押ししたという部分もあるだろう。シアトルのファン、そしてチームメイトは「グリフィJr.がいなくなる」ことの大きさに今さらながらうろたえ、後悔の念を抱いているように思える。
個人的には、イチローがオールスター戦初のランニング本塁打を打ったときに、外野手として大股でボールを追いかけていたグリフィJr.の姿が目に浮かぶ。
キャリアの前半は「記録に残る男」そして後半は「記憶に残る男」。それはそれで、幸せな野球人生ではなかっただろうか。
最後に、グリフィ家の残る2人のプロ野球選手のSTATSも掲げる。41年に及ぶこの家の野球史を駆け足でたどった。
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1969年、19歳のケン・グリフィSrはドラフト29順目という遅い指名順位でCINに入団した。同期にはバート・ブライレブン、バディ・ベル、のちに日本にやってきたスティーブ・オンティべロス、ゲーリー・トマソン、マイク・イーズラーらがいる。この年のMLBドラフトは豊作とは言えないが、NPBは山本浩二、福本豊、田淵幸一、有藤通世、藤原満など空前の大豊作だった。グリフィSr.は年齢、キャリア的に東尾修、大島康徳と全く同じである。グリフィSr.は、ペンシルバニア、ドノーラ出身。地元ではスタン・ミュージアル以来のスター選手だった。
左打ち、ずんぐりした体のグリフィ.Srは、長打は少なかったが、バントが巧みで毎年30本前後も内野安打を打った。ミートも巧みで、77年にはPITのデーブ・パーカーと首位打者争いをした。俊足で守備範囲が広く、外野手としても優秀だった。
私はこの選手を生で見ている。1978年オフ、全盛期の「ビッグレッドマシン」の一員として来日しているのだ。このチームには打線にはジョー・モーガン、ピート・ローズ、ジョージ・フォスター、ジョニー・ベンチ、デーブ・コンセプシオン、投にはトム・シーバーがいたから、グリフィは影が薄かったが、若手一番の成長株としてはつらつとしたプレーがかすかに記憶に残っている。
この日本遠征に、当時9歳のグリフィJr.は恐らく同行していただろう。Jr.は父がプロ選手として第一歩を踏み出した年の11月に生まれている。彼は父が出世街道を登って行くのを目の当たりにしながら大きくなったのだ。
Jr.はシンシナティのモーラー高校時代、すでに注目される存在だった。地元のスター選手の息子であり、野球とフットボールで抜群の選手だったからだ。1987年グリフィJr.はドラフト全米1位でSEAに入団。ほぼ同期、同キャリアには伊良部秀輝、立浪和義がいる。父親もマイナー選手だった期間は短かったが、息子の出世の早さはそれ以上だった。
父は息子のプロ入り時には、NYYを経てATLに所属していたが、次第に出場機会を失い、控えに甘んじるようになる。息子は2年後にはMLBにあがり、いきなりレギュラーに。翌年には3割を打つ。そしてこの年8月に古巣CINに戻っていた父親がSEAに移籍。長いMLBの歴史でも初の親子共演が実現するのだ。
この歴史的な試合のオーダー。
SEAのランディ・ジョンソンが13勝目を挙げている。エドガー・マルチネスの名前がある。今も現役を続けるオマー・ビスケルもいる。相手チームには二足のわらじで有名だったボー・ジャクソンがいる。父親は3番を打つ息子の露払いをつとめ、仲良く1安打ずつを記録している。
この年、9月14日には、親子で本塁打の共演。オフには親子そろって日米野球に来日している。マスコミが賑やかに伝えていたのを思い出す。
ケン・グリフィSr.は翌1991年に41歳で23年に及ぶ長いキャリアを閉じた。
実はこの年、もう一人のグリフィがSEAの組織に名前を連ねている。グリフィJr.の2歳下の弟、クレイグ・グリフィがドラフト42順目でオハイオ州立大学から入団しているのだ。右打者のクレイグは非力だったためにAAAまで上がるのが精いっぱいだった。
「家族」という社会の最小単位が大きく揺らぐアメリカで、グリフィ家の物語は一種のファンタジーとして受けとめられていると思う。セシル、プリンスのフィルダー家のように仲たがいをする親子も多い中、幸せな物語を紡いでいるがゆえに、グリフィ家に対する世間のまなざしは温かいのだと思う。
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巨人のエースとして活躍した堀内恒夫氏が渡邉恒雄会長の後押しもあって、このたびの参議院選挙に出ることになった。「たかが選手が」と見下げていた渡邉会長は、堀内のどこに能力を感じたのかはわからないが、大乗り気だという。普天間基地問題、長引く経済危機など問題山積、悩み深い今の日本に対して、通算203勝139敗の成績を持つ堀内は、どういう政治手腕を発揮するのだろうか。
また、巨人の主軸打者として活躍した中畑清氏は、平沼赳夫氏らが作った新党「たちあがれ日本」から参議院選挙に出るという。保守政党の混迷の中、第三局ではなく、新しい保守を標榜するこの党のどの部分に中畑は共鳴したのだろう。1294安打を放った中畑は、参議院でどんなヒットを打つのだろうか。
そして、現役の巨人外野手谷佳知の夫人にして金メダリストの谷亮子氏は民主党から参議院に出馬するという。しかも現役としてロンドン五輪を目指すという。谷亮子は今、民主党の政策、マニュフェストを猛勉強中なのだろうか。資料を読む間もスクワットをしているのだろうか。子育ては大丈夫なのか。野球を終えて疲れて帰ってきた(レギュラーじゃないからそれほど疲れないか…)夫と政治問題について議論することはあるのだろうか。
率直にいえば、3人のアスリートに政治向きの期待をする人はほとんどいない。また彼らが真剣に政治の勉強をすると思う人もほとんどいない。総大将が「あっちに行け」と言われれば走り出し、「止まれ」といわれれば止まる、いわゆる「陣笠議員」として、国会議事堂に入るだろうと思っている。
政党だって彼らの政治手腕など期待していない。むしろ一人前に発言されたら迷惑なくらいだ。ほしいのは、全国区の「知名度」だけである。票さえ集めてくれればいいというのが本音だろう。
愚弄されているのは、有権者である。「人気者を出せば、票を入れる」と思われているのだ。生活が厳しくなり、将来的な不安も増す中で、日本をどうにかしてくれる人に投票したいと思う有権者は増えていると思うが、政党は、与野党問わずまだこうした「客寄せパンダ」が通用すると思っているのだ。
数々の栄誉を受け、我々を感動させてきたアスリートにとって、国会議員になることは「出世」なのだろうか。それが、アスリートの「上がり」なのだろうか。人一番高かったはずの「プライド」は、どこへ行ってしまったのだろうか。
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たろうさんのオーダーにお応えして、MLBでの安打/試合数の記録を調べてみた。ただし、シーズン最多安打100傑の範囲内とした。安打数の基準を下げれば、平均で2本以上打っている選手はざらにいる。規定打席以上に絞るにしても、そもそも規定打席(打数)の基準が過去はあいまいなために公正な比較ができない。200本安打以上を記録した打者は通算で500人いるので、もう少し時間をかければ、より精度のあるランクはできるが、とりあえず最多安打100傑でのランクをご覧いただきたい。
なぜ長々と言い訳してまでこの表をお見せしたかったかというと、イチローの時代を超越したすごさが際立っていたからだ。
100傑の上位に並ぶのは、軒並み80年以上前の記録だ。そのほとんどが殿堂入りした選手の所産。1位のヒュー・ダフィは三冠王になった強打者だが夏目漱石よりも1歳上の1866年生まれ。2位のティップ・オニールは1858年生まれ。この選手も三冠王。アメリカではなくカナダの野球殿堂入り選手。
以下、ナップ・ラジョイ、ジョージ・シスラー、タイ・カッブなど日本でいえば大正時代に活躍した選手が続く。打率.400オーバーの選手も多い。ベーブ・ルースが出現するまで野球とは安打で点を取るゲームだったことが分かる。
その中に、2004年262安打のイチローがいるのだ。この記録がいかに時代を超越しているかが分かる。
過去半世紀の選手で次に来るのは、28位の77年ロッド・カルー、で、29、30位が再びイチロー、そして32位にエルスタッド。H/Gが1.5を超える選手はこれだけしかいない。
イチローは、現代のMLBの野球とは次元の違う野球をしているのだ。
イチローのライフタイムSTATSでH/Gを見てみる。
MLBでのほうがH/Gの数字が高いことに注目。通算でも1.421に達している。彼のモチベーションのあり所が分かる。イチローの調子の目安として、この数字を上回っているかどうかも注目すべきだろう。
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京セラドーム、頭の上の方で野太い声がするので見上げると、上の席にチョコレートみたいにつやつやの美しい顔をした黒人の老人がいた。話し方ですぐわかった。ロベルト・バルボン、福本豊の前の前の阪急の一番打者だ。
キューバ生まれのバルボンは、MLB機構に1年だけいて日本にやってきて阪急に入団。その5年目にキューバ革命が起こって帰国が難しくなり、日本に永住することになった。俊足で盗塁王を3回取っているが、投高打低の時代とはいえ、バッティングのSTATSは1年目を除き貧相だ。しかし守備範囲の広さと、それ以上に可愛げのあるキャラクターで「チコ(ちびっこ)」という愛称で親しまれた。
私は現役時代の記憶はあまりないが、強烈な印象をもったのは、引退後、通訳としてしばしばTVに登場したからだ。バルボンはスペイン語が母国語のはずだが、ラテン系のロベルト・マルカーノだけでなく、その同僚だったウィリアムスからブーマーまで歴代の阪急の外国人選手の通訳をした。球団側の「同じ外人だから、英語くらいわかるだろう」というアバウトな感覚が、今も語り草になるくらいの珍通訳を残すことになった。
たとえば、こんな感じだった。
アナウンサー「○○選手、おめでとうございます。打ったのはどんな球ですか?」
バルボン(一応通訳する)
外国人選手「話す(今日はうまくカーブが打てた、などなど)」
バルボン「えと、何ていうたかな。何か調子ええらしいわ!」
アナ「(困惑しながら)そうですか、明日も頑張ってくれますか?」
バルボン(一応通訳)
外国人選手「チームのためにがんばりたい」
バルボン「がんばる、言うてるわ!」
アナ「○○選手が元気になって、チームもひと安心ですね!」
バルボン(通訳せず)「そやね!」
一番堪能だったのは間違いなく大阪弁だ。今年77歳。金田正一や吉田義男と同い年だ。
試合が始まってしばらくするとその姿は消えていた。今は、カブレラなどの相談相手だそうだ。
在日55年になるバルボンさんは恐らく、大阪弁で相談に乗っているのだろう。
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昨日知ったのだ。「Slugger」誌をめくっていて、3月9日にウィリー・デービスが自宅で死亡したと掲載されていたのだ。わずか2年のNPB生活だったが、中年以上の野球ファンにとって、強烈な印象を残したのではないか。
今知ったのだが、デービスは王貞治さんと同い年で、プロ入りの年も一緒。そんな世代だったのだ。ドラフト外で59年に入ってからLAD一筋。オールスターにも2回選ばれ、2000本安打も記録。俊足好打好守の名外野手、LADの花形の一人だった。チームメイトには、あのサンデー・コーファックスやドン・ドライスデールがいる。
しかし15年目にしてMTLに移籍、以後はTEX、STL、SDとジャーニーマン生活を送った揚句に1977年中日に来たのだ。37歳、すでに盛りを過ぎていたが、これほどの実績のある選手が来ること自体がニュースだった。
彼は、日本ですごいことをやらかすのだ。5月14日の巨人戦。7回満塁、投手西本聖。思い切り引っ張った打球はライトフェンスを直撃、塁上のランナーは続々と帰ってきたが、何と、打者のデービスまでホームに駆け込んだのだ。右翼手は多少もたつきはしたが、転倒はしなかったように思う。しかし、デービスの足が異様に早い。大きいストライドでどんどん塁をまわって、最後は両手を上げてホームに滑り込んだ。捕手の矢沢はタッチできなかった。ランニング満塁本塁打。何が起こったのかとっさにわからなかった。熊か何かに追われて逃げているかのように、選手がどんどんホームに帰ってきたのだ。
http://www.gslb.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_may/KFullNormal20080508133.html
確か、ヒーローインタビューで彼は雄たけびを上げたように思う。巨人戦しかTV中継がなかった当時、デービスは全国的に知られる存在になった。
残念ながら、デービスは故障がちだった。翌年にはクラウンライター・ライオンズに移ったが、そこでは輝きは失せていた。あのピンク色の珍妙なユニフォーム姿は悲しかった。
1979年CALで最後のシーズンを過ごしてリタイア。
引退後は無職になって窮迫し、両親を恐喝して逮捕されるなど、いい話はあまり聞こえてこなかった。どんな晩年を送ったのかは知らないが、寂しい死だったのではないか。
でも、33年前の5月に、ウィリー・デービスが我々に見せてくれた、夢みたいなプレーはいまだに目に焼き付いている。折しもその年からフジTV系列でMLB中継が始まったが、デービスはMLBのスケールの一端を我々に見せつけてくれたのだ。
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NPBからMLBに移籍して成功をおさめた選手を見ると、いずれもNPBでは実力抜群ながら、異端のレッテルを貼られた選手であることが分かる。野茂英雄はあのトルネード投法に固執した。イチローも自分の練習法、自分のスタイルをかたくなに守ってきた。もちろん、彼らはチームプレーを怠ったわけではないが、チームの勝利に貢献すると同時に、自分のポテンシャルを高める努力を重ねてきたと思う。また、長谷川慈利や田口壮のように、MLBに来て苦労を重ねていくうちに、MLBのスタイルを身につけ、適応していった選手もいる。チームを渡り歩くうちに、一個のプレイヤーとしての実力を蓄えていったのだろう。
不思議なことに、MLBで成功したNPBプレイヤーはパリーグの選手が多い。私は常々セパは異質の野球をやっていると思っているが、そのこととも無縁ではないだろう。
情報戦に優れた日本の持ち味は、WBCで存分に発揮された。最初は手こずった韓国を最後には下したのは、対戦を重ねるうちに蓄積したデータを選手たちにフィードバックしたからだろう。相手の主力、金泰均、奉重根をじりじりと追い詰めたのは、まさに情報の力だ。
キューバを難なく連破したのも情報の力ではないか。とにかく、日本は相手の姿がはっきりしていれば、その攻略法をチームぐるみで考えるのだ。
セパ交流戦で、それまで好調だったチームが急に勝てなくなったり、弱かったチームが元気になるなど、毎年、順位が変動するのも興味深い現象だ。普段戦わないチームとの対戦で情報戦の密度が落ち、チーム本来のポテンシャルで戦わざるを得なくなったときに、各チームの力関係は一変してしまうのだ。
NPBを池とすると、MLBは海のようなものだ。海には常に世界から様々な水が流れ込む。そして常に変化している。MLBの選手たちは、その変化に自分で適応し、生き残っていかなければならない。NPBを淀んだ池にたとえるのはやや酷だが、一度身に付けたコツや対戦相手との駆け引きを糧としてキャリアを重ねる古つわものがたくさんいるのも事実だ。それはそれで日本人好みの味わい深い野球ではあるが、箱庭のような細かく精緻な野球を続けている限り、MLBとの差は埋まらないと思う。
NPBでは「戦略」とは、チームが立てるものであり、選手はそれを遵守する存在だ。しかしMLBでは、「戦略」とは選手個々が立てるものであり、チームは優れた戦略性を持つ選手を見極めて起用する。この差は、大きなことを言えば、日米の社会の在り方や個々の社会のかかわり方にもつながる問題ではあろう。国際化とは、そんな既存の在り方、個々のたたずまいを打破することからはじまるのだと思う。
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推測ではあるが、MLBに渡った日本人選手は、ほとんど情報がない打者といきなり対戦して戸惑いを覚えたはずである。しかも、対戦チームは次から次へと変わる。知らない選手との対戦が延々と続く。チームはそれなりのデータは提供してくれるだろうが、それはNPBのデータとは比較にならない簡単なものだろう。日本人選手は、自分の能力と経験を頼りに戦いを続けざるを得なくなる。精緻な情報戦を高校時代から続けてきた日本人選手にとって、それは大きなカルチャーショックではないか。特にチームプレーに忠実で、監督の指示をよく守ってきた選手や、対戦相手の弱点をよく知って、それを突く技術を磨いてきた選手は、途方に暮れたのではないか。
MLBにおいては、選手は自身の基本的な能力によって世渡りをする。未知の相手と対戦したときに、選手は相手のタイプやポテンシャルをその場で見極め、自分のポテンシャルと引き比べて戦略を決めるのだ。もちろんチームがおかれている状況や監督の指示などを頭に入れる必要があるにしても、最終的な判断は選手個々に委ねられる。
監督、コーチは、選手に指示をあたえはするが、それは大局にかかわる部分に限定される。グランド内での細かなデシージョンは、選手個々の判断に任せる。むしろ、指導者はどの選手をどのように起用するかが問われている。チームが不振に陥れば、ペナントレースの最中でも選手を大胆に入れ替えるのはそのためだ(NPBなら戦法を変えるだろう。また、コーチの首が飛ぶこともある)。
MLBにおいて、選手個々のデータが詳細を極めているのは、選手の選別こそが優勝への最大のファクターだからだ。セイバーメトリクスの出現以来その傾向にはますます拍車がかかっている。これに対しNPBがSTATSとともに「選手の性格」を重視するのは、その選手がチームの意向を受けてどのように動けるかを知りたがっているからだ。NPBでは選手に順応性、適応力をより求めているのだ。
NPBのチーム全体での戦略性の高い野球は、実はMLBから導入されたものである。相手チームを調べ尽くし、チーム力で勝つという当時のMLBの戦法を導入し、NPBの野球を質的に変えたのは巨人だ。当時のMLBは、ア・ナ各8球団であり、各リーグは22試合総当たりだった。つまり今のNPBと同じスタイルだったから、チーム戦略による戦い方が発達したのだ。アメリカはマーケティング発祥の地であり、情報戦に対する意識は発達していた。
しかし、1960年代からMLBはエクスパンションの時代に入る。対戦相手はどんどん増えていき「情報重視の戦法」は、通用しなくなってきた。またFA制によって、選手をチームに縛り付けることもできなくなってきた。こうしたなかで、MLBの「戦略」は質的に変わってきたのだと思う。
NPBは、1950年の2リーグ分立以来、基本的には同じスタイルでペナントレースを戦ってきた。MLBからもたらされた「情報重視の戦法」は、本家のアメリカ以上に精緻を極めるようになった。それは、「全員野球」「小よく大を制す」などの言葉が大好きな日本人の国民性にも合致していたからだ。
こうして数十年がたって、MLBとNPBの野球は質的に大きく異なったものになった。NPBに来る外国人も、MLBに行く日本人もそのギャップを大きな壁と感じているのだ。
※MLBからもたらされた戦法には今の「スモールベースボール」にあたるものもあったが、「情報重視の戦法」とは違う次元のものだ。今、MLBで行われている「スモールベースボール」は、個々の選手のポテンシャルに頼るところが大きいという点で、日本の「情報重視の戦法」に基づく「スモールベースボール」とは異なる。
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2008年から2009年にかけて、NPBを代表するクローザー2人が海を渡り、MLBに挑戦した。小林雅英、福盛和男である。NPBの投手力を高く評価するようになっていたMLBは、2人を即戦力として迎え入れた。しかし、彼らは結果を残すことなくMLBを去った。また、この時期、NPBを代表するエースだった黒田博樹、川上憲伸もMLBに挑戦した。能力の片鱗は見せたが、期待に十分に応えたとは言えない。さらに、日本を代表するスラッガーの一人、福留孝介も海を渡ったが平凡な成績で期待を裏切った。
個々の選手にはそれぞれの事情はある。そのことについては、各選手の項でふれるが、彼らの不振の根底には、MLBとNPBの野球の体質そのものの大きな違いがあるような気がしてならない。
一言でいえば、それは「戦略」の在り方ではないか。
セパ交流戦ができてNPBの選手が対戦するチーム数は5チームから11チームへと倍増した。しかし、交流戦は24試合に過ぎない。残りの120試合、全試合の84%は同一リーグの5チームと対戦する。簡単にいえばNPBで勝利するためには、5チームに対する戦略を練ればよい。主力打者を各チーム8人とすれば、40人分。主力投手を先発、リリーフ合わせ各チーム6人とすれば、30人分。合わせて70人分の攻略法があればいいことになる。事実、日本では先乗りスコアラーが敵チームの情報把握に努め、常に攻略法を最新のものにアップデートしている。すでに手の内を知り尽くしている相手の、能力や癖、性格を分析し、精緻な攻略法を組み立てている。選手はスコアラーやコーチから渡された詳細なデータ、攻略法を元に選手と対戦する。NPBでは、グランド外での情報戦が大きなウェイトを占める。そして個人の判断よりも、チームの戦略が常に優先されるのだ。
これに対し、MLBでは、対戦するチームはインターリーグも含めると18チームにもなる。最も多く対戦するのは同一リーグの同地区チームだが対戦数は72試合、全試合の44%に過ぎない。同一リーグ他地区との対戦が72試合44%、インターリーグでの対戦が18試合12%。同一地区の対戦相手の攻略が一番重要なのは言うまでもないが、そのチームの攻略法を立てるだけではペナントを手にするのは難しい。少なくとも同一リーグの全チームのデータが必要だ。NPBと同様、各チーム主力打者を8人、主力投手を6人と考えると210人分の攻略法が必要になってくる。しかも、選手の移動は極めて激しい。シーズン中にオーダーやローテーションががらりと入れ替わってしまうことも珍しくない。MLBでもスコアラーがおり(というか、NPBはMLBの戦法をお手本にしたのだが)選手のデータをとっているが、それは主に次に獲得する選手の情報だ。NPBのように1人1人の選手の精緻な攻略法をまとめ上げることはしていない。あまりにも膨大な資料になるし、まとめている間に選手が移動することも多い。割に合わないのだ。もちろん、各選手のデータはそれなりに渡されるだろうが、敵チームの攻略はグランドにいる選手に委ねられる割合が大きくなる。情報戦の要素よりも選手がこれまで培ってきた能力や経験にかかるウェイトが大きいのだ。
こうした土壌の違いが、MLBとNPBの野球を質的に大きく異なったものにしていると思う。
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