簑田浩二|クラシックSTATS鑑賞 阪急-56

ダンディで大人の雰囲気があった外野手。MLBでいえば5ツールプレイヤーということになろう。

【キャリア】
広島県廿日市市出身。大竹高校から三菱重工三原、72年南海よりドラフト4位指名されるが拒否、75年阪急にドラフト2位で入団。外野手として活躍。88年巨人移籍。90年引退。巨人コーチ、解説者。
【タイトル、それに準ずる記録】
○最多三塁打1
・打撃10傑入り2・OPS.900以上2 ・RC100以上1 規定打席以上9シーズン
ベストナイン3、ゴールドグラブ8 オールスター出場4回。
【論評】
簑田の入団当時、阪急には福本、大熊、ウィリアムスという鉄壁の外野陣がいた。2年間控えに甘んじたために、本格的に売り出したときには26歳になっていた。以後10年間、簑田は第三次黄金時代の中核選手として、レベルの高い活躍をする。
確実性のある打撃も、送りバントなどの小技も巧み、本塁打も打てて、走塁もトップクラス、守備範囲は広く、肩もいい。ついでに言うなら役者並みの男前。阪急という職人集団にあって、ひときわ女性に人気があったのも頷ける。83年には3割30盗塁30本塁打。この手の記録が注目されたのは、簑田からだったと記憶する。
福本の後ろの2番を打つことが多かったが、加藤秀が移籍してからは3番を打った。
35歳で巨人に移籍。真新しい巨人のユニフォーム姿で『週刊ベースボール』の表紙を飾ったのを覚えている。篠塚、原、中畑らのラインナップで、トップバッターとして活躍することが期待されたが、成績を残すことはできなかった。
もう少し早くプロ入りしていたら、そしてもっと早くレギュラーの座を得ていたなら、簑田は優に2000本安打を打っていただろう。めぐりあわせのよくない選手だったと思う。

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ウィリアムス|クラシックSTATS鑑賞 阪急-55

マルカーノと一緒に日本にやってきた。強肩好守の外野手だったが、マルカーノの影に隠れて印象は薄かった。

【キャリア】
カリフォルニア州アラメダ出身。66年セントエリザベス高校からドラフト11順目でSFに入団。74年75年阪急入団。外野手として活躍。80年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
MLB
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上0シーズン
NPB
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上4シーズン
ゴールドグラブ2 オールスター出場1回。
【論評】
フルネームはバーニー・ウィリアムス。この名前のメジャーリーガーはNYYの大スターと、彼の2人だけである。スピード感のある外野手としてSFのドラフトにかかった。同期にはスティ-ブ・ガービーがいる。MLBでは守備固めが多かった。
阪急に来た時には年齢でもキャリアでもマルカーノよりも格上だったが、日本では立場は完全に逆転した。守備範囲は抜群に広く、75年には外野手の刺殺数の記録(10)も作った。しかし打撃成績ではマルカーノの後塵を拝していた。
評価がそれほど高くなかったのは、集中力を欠いたようなプレーがしばしばあったからだ。
よく大阪球場の右翼で彼の守備を見たが、ファーストミットのような長いグローブをぶらつかせて余裕を持って打球を追いかけていた。ただ、しばしばそのグローブの先からボールがこぼれた。
打順は7番が定位置。この打順としてはそれなりの成績を残していたが、次第に下降線を描き、6年で退団した。

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マルカーノ|クラシックSTATS鑑賞 阪急-54

阪急は優れた外国人二塁手を何人も獲得したが、一番印象に残り、懐かしいのはボビー・マルカーノだろう。

【キャリア】
ベネズエラ出身。カラカス高校から69年CINに入団。以後CLE、CALに移籍するもMLB昇格ならず。75年阪急入団。二塁手として活躍。83年ヤクルト移籍。85年引退。巨人の中南米スカウト。90年死去。
【タイトル、それに準ずる記録】
●打点王1 ○最多三塁打1
・打撃10傑入り2・OPS.900以上1 ・RC100以上0 規定打席以上10シーズン
ベストナイン4 ゴールドグラブ4 オールスター出場5回。
【論評】
確かマルカーノは、70~80年代のMLB最高の2Bの一人、マニー・トリーヨ(Jesus Manuel Marcano Trillo  CHC、PHIなど)のいとこのはずだ。そのマイナーでの成績を見ていると、目立つものではないにせよ着実に進化しており、あと1、2年でMLBに昇格したのではないかと思われる。
まだ24歳の若さで日本に来て、阪急に入った。このチームは代々外国人選手を使うのが巧みだったことも幸いし、1年目から活躍した。
日本人が好感を抱いたのは、彼が雲をつくような大男ではなく、日本人と大差ない体格で、とにかくひたむきにプレーしたこと。そして、私生活でも日本に溶け込もうとしたことが大きい。シーズンオフは南米のウィンターリーグに参加。中米出身の選手にとっては普通のことだが、当時の日本では「何と野球が好きな若者だろう」と評判になった。
中距離打者であり、中軸を担うにはやや力不足だったが、勝負強い打撃とアグレッシブな守備で全盛期の阪急のなくてはならないメンバーとなった。打順は5、6番が定位置。長池、加藤秀などの強打者の後を打って、勝負を決定づける当たりをしばしば飛ばした。また2Bながら強肩でスナップスローがうまく、2Bのシーズン併殺記録を持っていた。大橋穣と鉄壁の二遊間を組んだ。
83年ブーマーと入れ替わる形で阪急を退団し、ヤクルトへ。若松勉、大杉らと中軸を打ったが3年で引退した。
39歳の若さで肺がんで死亡。MLBでプレーしなかったマルカーノはアメリカでは顔が利かない。もっと日本球界にかかわりたいと思っていたはずだ。日本は彼に対しても十分に報いていない気がする。

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60年代入団の阪急野手|クラシックSTATS鑑賞 阪急

阪急の第一次黄金時代とは、67年からの3連覇を言う。スペンサーという圧倒的な存在を得て、チームが覚醒した感がある。その直後に68年という空前のドラフト大豊作年があって、山田、加藤、福本という大選手が入団。第二次黄金時代、第三次黄金時代へと続いていく。
打てない地味な時代の選手と、新しい時代の選手が同居しているのが60年代の阪急ブレーブスである。
捕手 
■岡村浩二(1961-71) 
■中沢伸二(1965-85)  
一塁手
■石井 晶(1960-71) 
■加藤秀司(1969-82)  
二塁手
■山口富士雄(1963-73)  
■スペンサー(1964-68 71-72) 
■住友 平(1966-75)  
三塁手
■森本 潔(1965-76)  
■井上 修(1970-80)  
遊撃手
■阪本敏三(1967-71)  
■大橋 穣(1972-82)  
外野手
■矢野 清(1961-70)  
■早瀬方禧(1963-69)  
■大熊忠義(1964-81)  
■山本公士(1964-70)  
■ウィンディ(1964-69)  
■高井保弘(1966-82)  
■長池徳士(1966-79)  
■当銀秀崇(1968-77)  
■福本 豊(1969-88)  
■正垣宏倫(1969-76) 
70年代以降次々と強打者が入団し、阪急のチームカラーは大きく変貌していく。
クラシックSTATS鑑賞 阪急 総INDEX
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加藤秀司|クラシックSTATS鑑賞 阪急-43

長池とともに次黄金時代を担った左打者。シュアな打撃と長打力を併せ持つ、理想的な打者だった。

【キャリア】
静岡県川崎町出身。PL学園高から松下電器に進む。66年に東映、67年に南海からドラフト指名を受けるがいずれも拒否。68年ドラフト2位で阪急入団。一塁手として活躍。83年広島、84年近鉄、86年巨人、87年南海に移籍。同年引退。解説者、日本ハム、オリックスコーチを歴任。
【タイトル、それに準ずる記録】
●首位打者2 ●打点王3 ●最多安打1 ●最高出塁率3 ○最多二塁打2
・打撃10傑入り9・OPS.900以上7 ・RC100以上2 規定打席以上14シーズン
MVP1、ベストナイン5、ゴールドグラブ3、オールスター出場11回 
【論評】
ヘルメットにバットをコツンと当てて、低い姿勢で構えるフォームには独特の味があった。全盛期は火の出るようなライナーを打っていた。大きな体ではないのに、毎年のように30本塁打近く打ったのは、ツボにはまった時にフルスイングできたからだ。バットスイングは猛烈に速かった(加藤秀が日ハムコーチのときに小笠原にフルスイングを伝授したというのもうなずける)。
当初は長池の前の3番に座り、打率狙いの中距離打者だったが、75年長池が不振に陥ると本塁打も量産した。能力の高さをうかがわせる。また1B守備もゴロさばきが巧み。首を少し傾げて打球を処理するところは、同時期の王貞治と似ていた。また、若いころはよく走っていた。まさに走攻守そろった名選手だった。後ろに長池という強打者が控えていただけに四球は多くなかった。
82年34歳のときに.235に終わると広島の水谷実雄とトレードで広島に移籍。この年のシーズン当初は不振を極め、パの野球のレベルがセよりも低いのではないかという記事まで出た。以後、加藤秀は毎年のようにチームを変えるジャーニーマンとなる。阪急では押しも押されもせぬ大スターだっただけに、つらい日々が続いたと思われる。
晩年はとにかく2000本安打を打つことが目的となっていた。達成の数日前、大阪球場の三塁側で試合を見ていたが、加藤秀の振り遅れのファウルが何本もスタンドに飛び込み、肝を冷やしたことがある(当時ファウルボールは球場に返し、キーホルダーを貰うことになっていた)。左の強打者が打てなくなるケースは何度か見てきたが、加藤秀はスイングが波打つ感じで、往時を知るものとしてはややショックだった。
解説者としては、ぼやき節風。打撃論には面白いものがあった。
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福本 豊|クラシックSTATS鑑賞 阪急-42

その気さくな性格ゆえに、大きな存在とは見られないが、王貞治、張本勲、イチローと並ぶ歴史的な選手である。スピード野球の扉を開けた。

【キャリア】
大阪市生野区出身。大鉄高では甲子園出場、松下電器を経て69年ドラフト7位で阪急入団。外野手として活躍。88年引退。オリックス、阪神コーチを歴任。2002年殿堂入り。
【タイトル、それに準ずる記録】
●盗塁王13 ●最多安打4 ○最多得点10 ○最多二塁打3 ○最多三塁打8 ○最多四球6
・打撃10傑入り8・OPS.900以上1 ・RC100以上4 規定打席以上17シーズン
MVP1、ベストナイン10、ゴールドグラブ11、オールスター出場16回 サイクル安打、30試合連続安打、初回先頭打者本塁打43
【論評】
インタビューを生業の一部としているのでアスリートに話を聞く機会がしばしばある。名選手の多くは有名人のオーラを発していたものだが、福本豊は全くそういう気配がなかった。近所のおじさんと話をしている感じがした。ただ、その話は尋常ではなかった。
オフシーズンには北陸へよくカニを食べに行ったそうだが、メスガ二(セコガニ)が大好きで、宿に頼んでざるに山盛りカニを持ってもらい、ビールを片手に一晩中食べ続けたという。三泊四日で行けば毎日そうしたという。食への極端なこだわりは、イチローに通じるものを感じさせた。
盗塁の記録がどうしてもクローズアップされるが、打者としての福本も稀に見る存在だ。
打率は常に3割近くを打つ上に、四球は50を超えている。IsoDは当時としては高い.070以上。つまり中々凡退しない打者だった。その上どんな形であれ出塁すれば全盛期は50%以上の確率で2塁まで進んだのだ。1人で2人以上の働きをする打者といってよいだろう。
その密度は、イチローのNPBでのレギュラーシーズン7年との比較で出てくる。

●は塁打と四球、盗塁の合計から盗塁死を引いた数値での比較。つまり単純に「いくつ塁をとったか」という数字だ。圧倒的に安打を量産し、長打でも福本を上回るイチローだが、盗塁の数値を合計すると福本とほぼ拮抗する。生産性はほぼ同等なのだ。他チームにとっては、イチローと同様最大の脅威だっただろう。
外野手としても福本は守備範囲の広さと、捕球してからの早さ、的確さで一流の存在だった。
そして福本の本当の偉大さは、多くの大選手と同様、息の長さにある。実に18年の長きにわたって100安打を打ち続けた。平均すれば138安打。130試合制では1チームのシーズン安打数は1200安打前後だが、福本は1人でその1割以上を打ち続けたのだ。首位打者の可能性も十分にあったと思う。
福本豊は、自らの打撃や走塁のノウハウを論理的に言わないことで知られる。走塁は「気合いや!」打撃も「バッ」「ゴーン」「カーン」。福本語録と言われる名(迷)言は、彼の野球の精妙さの反証だと思う。真似してできるものではないし、学べるものでもない。「説明の拒絶」は、福本のレベルの高さを意味しているのではないか。この部分もイチローに通じると思う。
盗塁世界記録を達成した時の国民栄誉賞の辞退、監督に就かなかったことなど、福本豊の生き方には背骨の存在を感じる。
2002年鈴木啓示とともにドラフト施行後最初の殿堂入り。野球中継などを通じて、我々は日々、気さくな偉人と接しているのである。

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大橋 穣|クラシックSTATS鑑賞 阪急-41

打撃は弱いが守備がすごいと言われ続けた“守備のスター”。
 
【キャリア】
東京都新宿区出身。日大三高から亜細亜大学、大学通算20本塁打。69年ドラフト1位で東映入団。内野手として活躍。72年阪急移籍。82年引退。阪急、オリックス、ヤクルト、中日、SKでコーチ。統一監督を歴任。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上1シーズン
ベストナイン3、ゴールドグラブ7、オールスター出場3回
【論評】
大学屈指のスラッガーとして東映に入団。守備力もあり中軸を担うと期待されたが、打撃は全く振るわなかった。当時としては三振が際立って多く、確実性がなかった。しかし守備面では大下剛史を2Bに追いやりSSのレギュラーを獲得。今なら普通に見られるグラブトスによる併殺や、バックハンドトスなど派手なフィールディングでグランドを沸かせた。その評価は72年、阪本敏三とのトレードで阪急に移籍してから定着。“守備だけで銭が取れる野手”としてベストナインにも3度選ばれた。福本豊とはプロ初出場試合も1000試合出場も同じ日、一時期は同期の両雄と見なされたこともあった。
ただ、打率.210台。規定打席にも達していない打者が3度もベストナインに選ばれたのは今見れば、違和感がある。当時パリーグに打てるSSがほとんどいなかったためだが、打撃成績でいえば交換で東映―日拓―日本ハムに移籍した阪本敏三の方が上だった。
70年代後半、打撃優位の野球への変質とともに大橋の出番は減っていく。率直にいえば、やや過大評価された選手のように思える。

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阪本敏三|クラシックSTATS鑑賞 阪急-40

近鉄の選手という印象が強い。しかしその野球は西本阪急で完成されたものだ。

【キャリア】
京都市伏見区出身。平安高校から立命館大学、卒業時にドラフト5位で東映に指名されるが拒否して河合楽器へ。66年ドラフト5位で阪急入団。内野手として活躍。72年東映、76年近鉄、79年南海移籍。80年引退。近鉄コーチ。
【タイトル、それに準ずる記録】
●盗塁王3 ○最多三塁打1
・打撃10傑入り2・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上8シーズン
MVP2、ベストナイン4、オールスター出場5回
【論評】
66年のドラフトの最後から2番目の指名で阪急入団。評価は決して高くなかったが、たちまち頭角を現し、リーグ屈指の遊撃手となる。ライバルと目される安井、大橋などと比べても攻撃面では大きく上回っていた。当時としては長打力もあった。
72年、阪急は守備面の強化を目指して東映の大橋穣と阪本を交換した。これによって阪急の第二次黄金時代のメンバーは完成したと言われるが、攻撃面では安全パイを打線に加えたことになった。
しかし、後付けで考えれば屈指の1番打者であった阪本が出されたために福本豊の活躍の余地はさらに広がったとも言えるだろう。
73年阪本は三塁手にコンバートされた。打力を活かすために守備の負担を軽減したのだが、皮肉なことにここから成績は下降線を描いた。晩年は守備固めと代打専門になってしまった。往時の颯爽とした姿からすれば残念なことだ。

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長池徳士|クラシックSTATS鑑賞 阪急-39

全盛期の打棒はONに匹敵した。分厚い打線の中軸に座る、正真正銘の4番打者だった。

【キャリア】
徳島県鳴門市出身。撫養高校時代に甲子園出場。法政大学では.286、3本塁打。66年ドラフト1位で阪急入団。外野手として活躍。79年引退。阪急、西武、南海、横浜、千葉ロッテコーチを歴任、解説者。
【タイトル、それに準ずる記録】
●本塁打王3 ●打点王3 ○最多得点2 ○最高長打率3
・打撃10傑入り6・OPS.900以上5 ・RC100以上3 規定打席以上9シーズン
MVP2、ベストナイン7、オールスター出場9回
【論評】
両足を大きく開いて重心を下げ、左肩の上にがっちりと顎を載せて、微動だにせずマウンドをねめつける。その不動の姿勢は相手投手の脅威だった。今、アルバート・プホルズの打席を見ていると、少し長池が重なるときがある。重心が低く、右打席でどっしり構えているところが似ているように思う。
こんな大きな構えながら、長池は内角打ちがうまかった。スイングが早かったのだろう。
長池の特徴としては、猛烈な固め打ちをしばしばしたことが上げられる。一時期は32試合連続安打、11試合連続打点、月間16本塁打、4打数連続本塁打というNPB記録を持っていた。今は4打数連続本塁打だけだが、とにかく打ちだしたら手がつけられないという印象だった。
68年から75年まで、パの打撃タイトルは長池、大杉、野村、張本の4人でほぼ独占していた。スラッガーが大道を闊歩する大らかな時代だった。中で一番確実性があったのが長池だった。

その長池が、突如打てなくなったのは75年のことだ。膝の故障が原因のようだが、この時期からパリーグにDHが導入されたことも一因ではないか。長池は守備の負担を軽減するためにDHにされることが多かったが、これが彼のリズムや試合感覚を失わせたのではないか。
1500安打も1000打点も達成することなく長池は引退した。中西太とともに、全盛期の高みを考えると惜しい選手だと思う。

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高井保弘|クラシックSTATS鑑賞 阪急-38

代打稼業で名を上げた最初の打者。まんまるい体が印象に残る。
 
【キャリア】
愛媛県今治市出身。今治西高から名古屋日産モーターを経て64年阪急に入団。一塁手、外野手、のちに指名打者として活躍。82年引退。解説者。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り1・OPS.900以上2 ・RC100以上0 規定打席以上3シーズン
ベストナイン1、オールスター出場1回。
【論評】
1打席に賭ける集中力と投手への観察力はダリル・スペンサーに学んだという。足が遅く、守備も上手くない高井にとって、代打は試合に出場する唯一の手段だった。74年には日本の通算代打本塁打記録を抜き、オールスター戦に出場。代打逆転サヨナラ本塁打という派手な仕事をした。
75年8月27日のロッテ戦の1回、負傷した森本潔の代打として登場。金田留から通算19本目の代打本塁打を打ち、MLBの代打本塁打記録18を抜いた。今にして思えば、それほどの大記録とは思えないが、当時は大きな扱いをされた。翌々年には王貞治の本塁打記録がベーブルースを超え大フィーバーを巻き起こすのだが、その前哨戦という印象だった。高井の代打本塁打記録は27にまで伸びた。これは今も日米の記録である。
この年からパリーグはDH=指名打者制を導入。守らなくても済むDHは、まさに高井のためにあると思われた。一部には本塁打王争いをするのではないかとの観測もあったが、長打は期待したほど伸びず、むしろアベレージヒッターだった。こういう例は高井を嚆矢とするが、このあとしばしば見られた。
80年からは再び代打に戻る。一発稼業になると再び本塁打率が上がり、打率が下がった。面白い記録をたくさん残した選手だった。

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