ダンディで大人の雰囲気があった外野手。MLBでいえば5ツールプレイヤーということになろう。
【キャリア】
広島県廿日市市出身。大竹高校から三菱重工三原、72年南海よりドラフト4位指名されるが拒否、75年阪急にドラフト2位で入団。外野手として活躍。88年巨人移籍。90年引退。巨人コーチ、解説者。
【タイトル、それに準ずる記録】
○最多三塁打1
・打撃10傑入り2・OPS.900以上2 ・RC100以上1 規定打席以上9シーズン
ベストナイン3、ゴールドグラブ8 オールスター出場4回。
【論評】
簑田の入団当時、阪急には福本、大熊、ウィリアムスという鉄壁の外野陣がいた。2年間控えに甘んじたために、本格的に売り出したときには26歳になっていた。以後10年間、簑田は第三次黄金時代の中核選手として、レベルの高い活躍をする。
確実性のある打撃も、送りバントなどの小技も巧み、本塁打も打てて、走塁もトップクラス、守備範囲は広く、肩もいい。ついでに言うなら役者並みの男前。阪急という職人集団にあって、ひときわ女性に人気があったのも頷ける。83年には3割30盗塁30本塁打。この手の記録が注目されたのは、簑田からだったと記憶する。
福本の後ろの2番を打つことが多かったが、加藤秀が移籍してからは3番を打った。
35歳で巨人に移籍。真新しい巨人のユニフォーム姿で『週刊ベースボール』の表紙を飾ったのを覚えている。篠塚、原、中畑らのラインナップで、トップバッターとして活躍することが期待されたが、成績を残すことはできなかった。
もう少し早くプロ入りしていたら、そしてもっと早くレギュラーの座を得ていたなら、簑田は優に2000本安打を打っていただろう。めぐりあわせのよくない選手だったと思う。
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マルカーノと一緒に日本にやってきた。強肩好守の外野手だったが、マルカーノの影に隠れて印象は薄かった。
【キャリア】
カリフォルニア州アラメダ出身。66年セントエリザベス高校からドラフト11順目でSFに入団。74年75年阪急入団。外野手として活躍。80年引退。
【タイトル、それに準ずる記録】
MLB
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上0シーズン
NPB
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上4シーズン
ゴールドグラブ2 オールスター出場1回。
【論評】
フルネームはバーニー・ウィリアムス。この名前のメジャーリーガーはNYYの大スターと、彼の2人だけである。スピード感のある外野手としてSFのドラフトにかかった。同期にはスティ-ブ・ガービーがいる。MLBでは守備固めが多かった。
阪急に来た時には年齢でもキャリアでもマルカーノよりも格上だったが、日本では立場は完全に逆転した。守備範囲は抜群に広く、75年には外野手の刺殺数の記録(10)も作った。しかし打撃成績ではマルカーノの後塵を拝していた。
評価がそれほど高くなかったのは、集中力を欠いたようなプレーがしばしばあったからだ。
よく大阪球場の右翼で彼の守備を見たが、ファーストミットのような長いグローブをぶらつかせて余裕を持って打球を追いかけていた。ただ、しばしばそのグローブの先からボールがこぼれた。
打順は7番が定位置。この打順としてはそれなりの成績を残していたが、次第に下降線を描き、6年で退団した。
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阪急は優れた外国人二塁手を何人も獲得したが、一番印象に残り、懐かしいのはボビー・マルカーノだろう。
【キャリア】
ベネズエラ出身。カラカス高校から69年CINに入団。以後CLE、CALに移籍するもMLB昇格ならず。75年阪急入団。二塁手として活躍。83年ヤクルト移籍。85年引退。巨人の中南米スカウト。90年死去。
【タイトル、それに準ずる記録】
●打点王1 ○最多三塁打1
・打撃10傑入り2・OPS.900以上1 ・RC100以上0 規定打席以上10シーズン
ベストナイン4 ゴールドグラブ4 オールスター出場5回。
【論評】
確かマルカーノは、70~80年代のMLB最高の2Bの一人、マニー・トリーヨ(Jesus Manuel Marcano Trillo CHC、PHIなど)のいとこのはずだ。そのマイナーでの成績を見ていると、目立つものではないにせよ着実に進化しており、あと1、2年でMLBに昇格したのではないかと思われる。
まだ24歳の若さで日本に来て、阪急に入った。このチームは代々外国人選手を使うのが巧みだったことも幸いし、1年目から活躍した。
日本人が好感を抱いたのは、彼が雲をつくような大男ではなく、日本人と大差ない体格で、とにかくひたむきにプレーしたこと。そして、私生活でも日本に溶け込もうとしたことが大きい。シーズンオフは南米のウィンターリーグに参加。中米出身の選手にとっては普通のことだが、当時の日本では「何と野球が好きな若者だろう」と評判になった。
中距離打者であり、中軸を担うにはやや力不足だったが、勝負強い打撃とアグレッシブな守備で全盛期の阪急のなくてはならないメンバーとなった。打順は5、6番が定位置。長池、加藤秀などの強打者の後を打って、勝負を決定づける当たりをしばしば飛ばした。また2Bながら強肩でスナップスローがうまく、2Bのシーズン併殺記録を持っていた。大橋穣と鉄壁の二遊間を組んだ。
83年ブーマーと入れ替わる形で阪急を退団し、ヤクルトへ。若松勉、大杉らと中軸を打ったが3年で引退した。
39歳の若さで肺がんで死亡。MLBでプレーしなかったマルカーノはアメリカでは顔が利かない。もっと日本球界にかかわりたいと思っていたはずだ。日本は彼に対しても十分に報いていない気がする。
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阪急の第一次黄金時代とは、67年からの3連覇を言う。スペンサーという圧倒的な存在を得て、チームが覚醒した感がある。その直後に68年という空前のドラフト大豊作年があって、山田、加藤、福本という大選手が入団。第二次黄金時代、第三次黄金時代へと続いていく。
打てない地味な時代の選手と、新しい時代の選手が同居しているのが60年代の阪急ブレーブスである。
捕手
■岡村浩二(1961-71)
■中沢伸二(1965-85)
一塁手
■石井 晶(1960-71)
■加藤秀司(1969-82)
二塁手
■山口富士雄(1963-73)
■スペンサー(1964-68 71-72)
■住友 平(1966-75)
三塁手
■森本 潔(1965-76)
■井上 修(1970-80)
遊撃手
■阪本敏三(1967-71)
■大橋 穣(1972-82)
外野手
■矢野 清(1961-70)
■早瀬方禧(1963-69)
■大熊忠義(1964-81)
■山本公士(1964-70)
■ウィンディ(1964-69)
■高井保弘(1966-82)
■長池徳士(1966-79)
■当銀秀崇(1968-77)
■福本 豊(1969-88)
■正垣宏倫(1969-76)
70年代以降次々と強打者が入団し、阪急のチームカラーは大きく変貌していく。
クラシックSTATS鑑賞 阪急 総INDEX
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長池とともに次黄金時代を担った左打者。シュアな打撃と長打力を併せ持つ、理想的な打者だった。
【キャリア】
静岡県川崎町出身。PL学園高から松下電器に進む。66年に東映、67年に南海からドラフト指名を受けるがいずれも拒否。68年ドラフト2位で阪急入団。一塁手として活躍。83年広島、84年近鉄、86年巨人、87年南海に移籍。同年引退。解説者、日本ハム、オリックスコーチを歴任。
【タイトル、それに準ずる記録】
●首位打者2 ●打点王3 ●最多安打1 ●最高出塁率3 ○最多二塁打2
・打撃10傑入り9・OPS.900以上7 ・RC100以上2 規定打席以上14シーズン
MVP1、ベストナイン5、ゴールドグラブ3、オールスター出場11回
【論評】
ヘルメットにバットをコツンと当てて、低い姿勢で構えるフォームには独特の味があった。全盛期は火の出るようなライナーを打っていた。大きな体ではないのに、毎年のように30本塁打近く打ったのは、ツボにはまった時にフルスイングできたからだ。バットスイングは猛烈に速かった(加藤秀が日ハムコーチのときに小笠原にフルスイングを伝授したというのもうなずける)。
当初は長池の前の3番に座り、打率狙いの中距離打者だったが、75年長池が不振に陥ると本塁打も量産した。能力の高さをうかがわせる。また1B守備もゴロさばきが巧み。首を少し傾げて打球を処理するところは、同時期の王貞治と似ていた。また、若いころはよく走っていた。まさに走攻守そろった名選手だった。後ろに長池という強打者が控えていただけに四球は多くなかった。
82年34歳のときに.235に終わると広島の水谷実雄とトレードで広島に移籍。この年のシーズン当初は不振を極め、パの野球のレベルがセよりも低いのではないかという記事まで出た。以後、加藤秀は毎年のようにチームを変えるジャーニーマンとなる。阪急では押しも押されもせぬ大スターだっただけに、つらい日々が続いたと思われる。
晩年はとにかく2000本安打を打つことが目的となっていた。達成の数日前、大阪球場の三塁側で試合を見ていたが、加藤秀の振り遅れのファウルが何本もスタンドに飛び込み、肝を冷やしたことがある(当時ファウルボールは球場に返し、キーホルダーを貰うことになっていた)。左の強打者が打てなくなるケースは何度か見てきたが、加藤秀はスイングが波打つ感じで、往時を知るものとしてはややショックだった。
解説者としては、ぼやき節風。打撃論には面白いものがあった。
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その気さくな性格ゆえに、大きな存在とは見られないが、王貞治、張本勲、イチローと並ぶ歴史的な選手である。スピード野球の扉を開けた。
【キャリア】
大阪市生野区出身。大鉄高では甲子園出場、松下電器を経て69年ドラフト7位で阪急入団。外野手として活躍。88年引退。オリックス、阪神コーチを歴任。2002年殿堂入り。
【タイトル、それに準ずる記録】
●盗塁王13 ●最多安打4 ○最多得点10 ○最多二塁打3 ○最多三塁打8 ○最多四球6
・打撃10傑入り8・OPS.900以上1 ・RC100以上4 規定打席以上17シーズン
MVP1、ベストナイン10、ゴールドグラブ11、オールスター出場16回 サイクル安打、30試合連続安打、初回先頭打者本塁打43
【論評】
インタビューを生業の一部としているのでアスリートに話を聞く機会がしばしばある。名選手の多くは有名人のオーラを発していたものだが、福本豊は全くそういう気配がなかった。近所のおじさんと話をしている感じがした。ただ、その話は尋常ではなかった。
オフシーズンには北陸へよくカニを食べに行ったそうだが、メスガ二(セコガニ)が大好きで、宿に頼んでざるに山盛りカニを持ってもらい、ビールを片手に一晩中食べ続けたという。三泊四日で行けば毎日そうしたという。食への極端なこだわりは、イチローに通じるものを感じさせた。
盗塁の記録がどうしてもクローズアップされるが、打者としての福本も稀に見る存在だ。
打率は常に3割近くを打つ上に、四球は50を超えている。IsoDは当時としては高い.070以上。つまり中々凡退しない打者だった。その上どんな形であれ出塁すれば全盛期は50%以上の確率で2塁まで進んだのだ。1人で2人以上の働きをする打者といってよいだろう。
その密度は、イチローのNPBでのレギュラーシーズン7年との比較で出てくる。
●は塁打と四球、盗塁の合計から盗塁死を引いた数値での比較。つまり単純に「いくつ塁をとったか」という数字だ。圧倒的に安打を量産し、長打でも福本を上回るイチローだが、盗塁の数値を合計すると福本とほぼ拮抗する。生産性はほぼ同等なのだ。他チームにとっては、イチローと同様最大の脅威だっただろう。
外野手としても福本は守備範囲の広さと、捕球してからの早さ、的確さで一流の存在だった。
そして福本の本当の偉大さは、多くの大選手と同様、息の長さにある。実に18年の長きにわたって100安打を打ち続けた。平均すれば138安打。130試合制では1チームのシーズン安打数は1200安打前後だが、福本は1人でその1割以上を打ち続けたのだ。首位打者の可能性も十分にあったと思う。
福本豊は、自らの打撃や走塁のノウハウを論理的に言わないことで知られる。走塁は「気合いや!」打撃も「バッ」「ゴーン」「カーン」。福本語録と言われる名(迷)言は、彼の野球の精妙さの反証だと思う。真似してできるものではないし、学べるものでもない。「説明の拒絶」は、福本のレベルの高さを意味しているのではないか。この部分もイチローに通じると思う。
盗塁世界記録を達成した時の国民栄誉賞の辞退、監督に就かなかったことなど、福本豊の生き方には背骨の存在を感じる。
2002年鈴木啓示とともにドラフト施行後最初の殿堂入り。野球中継などを通じて、我々は日々、気さくな偉人と接しているのである。
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40歳を過ぎてへとへとという感じの昨今だけを見ると、矢野は細い体に鞭打って頑張るただの“ベテラン捕手”に過ぎないが、実は阪神史上最強の捕手だった。少し長い表だが、2リーグ分立後の阪神の歴代捕手の一覧を見ていただきたい。
阪神だけではないが、かつて、捕手というポジションはオフェンス面ではほとんど期待されていなかった。2リーグ分立直後の正捕手徳網茂はルーキーだったがアベレージヒッターであり、当時としては珍しい打てる打者だった。しかし以後は規定打席に達する打者は皆無。100安打など遠い夢。2番手捕手に至っては打率2割さえ望むべくもなかった。
1969年に法政大学から入った田淵幸一が、いかに破天荒な捕手だったかはこれを見れば一目瞭然だ。前任者の辻佳紀(ひげ辻)や、控えの和田徹も強打で知られた捕手だったが、田淵はケタ違いだった。打線のお荷物どころか不動の4番。しかも強肩で知られた。エースの江夏との相性も抜群。まさに攻守のかなめだった。しかし、以後の田淵は良く知られているように捕手失格の烙印を押されていく。ファウルを追わない、ブロックができない。実際にはマスコミの阪神不振の“犯人探し”の犠牲者という部分も多かったと思うが、田淵は傷心の果てに西武に移籍する。以後、田淵のような存在は現れず、また捕手として絶対的な信頼感を与える選手もあらわれず、阪神は「帯に短し襷に長し」でやってきたのである(阪神だけでなく、多くの球団にとって“不動の捕手”を得るのは幸甚そのものといってよいと思うが)。
98年矢野の阪神移籍がどれほど大きなことだったかは、この表で明らかだ。矢野は田淵ほどの攻撃力はなかったが、はるかに大きな安定感、信頼性があった。しかも年間100安打以上を8度。立派なレギュラー打者でもあった。移籍の時点ですでに30歳だったが、阪神は矢野に投手陣を委ねた。吉田義男、野村克也、そして星野、岡田という個性の異なる指揮官に信頼され続けたことも評価できる。
実に11年の長きにわたって、矢野は阪神の正捕手であり続けた。これは田淵の9年を抜いて最長である。
名球会や野球殿堂などとは無縁だが、偉大な選手だったといえるだろう。
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今にして思えば、80年代後半の東北福祉大はそうそうたる顔ぶれだった。エースに佐々木主浩、主軸打者に大塚孝二、1年後輩に金本知憲、矢野燿大、2年後輩にATLの斎藤隆、浜名千広。彼らは決してエリートではなかったが、後にNPB、MLBで新たな歴史を作っていくのだ。東北福祉大の特色は打力優先にある。守備力よりは打撃を重視し、積極的に打つ野球だ。すでに故人となったが監督伊藤義博の考えに基づくのだろう。
矢野燿大は体が細く、それほど打力が期待された存在ではなかったが、東北福祉大でのキャリアを経て「打てる捕手」へと変貌していた。これが彼の長いキャリアにつながったと思う。
ドラフト2位で入った中日では、中村武志の控えに甘んじた。中村は星野仙一の“作品”ともいうべき存在だった。星野が監督でいる限り中村の正捕手の座は安泰。矢野は二番手捕手のままだった。
98年、大豊とともに関川、久慈とのトレードで阪神へ。当時はレギュラー未満の選手同士のごく普通の交換だと思われたが、阪神にとっては矢野の獲得は空前の成功だった。
以後、2008年まで阪神は捕手の心配をしなくても良くなったのだ。打力においてお荷物になることが多い捕手だが、矢野は中軸を打つ実力があった。そしてリード面でも当時の阪神の正捕手山田勝彦に勝っていた。毎年のように優勝争いに絡む、近年の阪神の要の位置に矢野は座ったのだ。阪神史上最強の捕手だったと言っても良い。
40歳を超え衰えが見えはじめた矢野の後継に城島が座ったことで、矢野の勇退は既定の事実化していた。しかし、精神的支柱を失うショックは小さくないだろう。特に金本知憲には大きな影響を与えるのではないか。
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打撃は弱いが守備がすごいと言われ続けた“守備のスター”。
【キャリア】
東京都新宿区出身。日大三高から亜細亜大学、大学通算20本塁打。69年ドラフト1位で東映入団。内野手として活躍。72年阪急移籍。82年引退。阪急、オリックス、ヤクルト、中日、SKでコーチ。統一監督を歴任。
【タイトル、それに準ずる記録】
・打撃10傑入り0・OPS.900以上0 ・RC100以上0 規定打席以上1シーズン
ベストナイン3、ゴールドグラブ7、オールスター出場3回
【論評】
大学屈指のスラッガーとして東映に入団。守備力もあり中軸を担うと期待されたが、打撃は全く振るわなかった。当時としては三振が際立って多く、確実性がなかった。しかし守備面では大下剛史を2Bに追いやりSSのレギュラーを獲得。今なら普通に見られるグラブトスによる併殺や、バックハンドトスなど派手なフィールディングでグランドを沸かせた。その評価は72年、阪本敏三とのトレードで阪急に移籍してから定着。“守備だけで銭が取れる野手”としてベストナインにも3度選ばれた。福本豊とはプロ初出場試合も1000試合出場も同じ日、一時期は同期の両雄と見なされたこともあった。
ただ、打率.210台。規定打席にも達していない打者が3度もベストナインに選ばれたのは今見れば、違和感がある。当時パリーグに打てるSSがほとんどいなかったためだが、打撃成績でいえば交換で東映―日拓―日本ハムに移籍した阪本敏三の方が上だった。
70年代後半、打撃優位の野球への変質とともに大橋の出番は減っていく。率直にいえば、やや過大評価された選手のように思える。
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今年のヤクルトは、投手陣が低迷し青木(5月.218)をはじめ打線も湿りがちだった。ヤクルトはデントナ、ガイエルという外国人がいた。どちらもやや粗いが大きいのが期待できた。特にガイエルは外野手としては守備範囲も広く強肩でリーグ屈指の存在だったが、今年はとにかく打てなかった。
「参りました」という感じで5月末に高田監督が退任し、小川監督代行になったとたんに息を吹き返した。こういうことは往々にしてあるものだ。企業でもそうだが、上司、管理職が変わると空気がガラッと変わることがある。ただ、それに加えて高田監督と入れ替わりで加入した新外国人ジョシュ・ホワイトセルの存在が大きい。
ホワイトセルは、名門ロヨラメリーマウント大では、シュアな打撃で知られた。2003年MTLの7順目(全体177番目)でプロ入り。この年は大当たりで、同期いの一番はデルモン・ヤング、1順目にはニック・マーケイキス、デービッド・アーズマ同じ7順目にはマット・ケンプ、ライアン・ブラウン、ケビン・クーズマノフがいる。ちなみにホワイトセルは、ケビン・ユーキリス、ライアン・ブラウンらと同じユダヤ系である。
ホワイトセルはプロ入り後も順調に数字を残していたが、2006年に故障のため1年を棒に振る。これで出世コースを外れたようだ。本塁打もAVGも残しているが、プロスペクトの評価はなくWSH、ARIと移籍した。一昨年MLBに昇格し、昨年はARIで46試合に出場したが、今季は再びWSHに移り、AAAから再スタート。ここでも3割をマークするが上から声がかからず、NPBの誘いに乗ったという経緯だ。
この選手はジェイソン・ジアンビに似ている。非常にボールを良く見る打者でIsoDは1.00を常に超えている。しかし三振を恐れず振ってくる。同時にミートも上手いから打率も上がる。左打者だがむしろ左投手を得意にしている。
こんな優秀な打者がなぜメジャーに定着できないかというと、足が遅いこと、そして守備がまずいことがあげられよう。1Bでありながら守備率が.980台。毎年10個以上エラーをしている。5ツールプレイヤー、スピード感があるプレイヤーの評価が高いMLBにあって、この手の選手の評価はどうしても低くなる。
日本で直ぐに適応できたのは、この選手の実力、資質から見て当然と言えよう。
ただし28歳のホワイトセルは、NPBで骨をうずめる気はないと思われる。今ではNPBの数字はMLBでもしっかりチェックされている。来季はMLB特にDHのあるALのオファーを期待しているのではないか。
ホワイトセルが来季ヤクルトに残留する可能性はそれほど高くないだろう。期間限定の活躍だと思う。
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